現場で出会った5つの言葉|患者家族から看護師が教わった瞬間【児童思春期精神科 体験エッセイ集】

eyecatch-604 児童思春期精神科の現場から

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児童思春期精神科の看護師として現場に立っていると、子どもたちや、その家族から、思いがけない言葉をかけられることがあります。それは、医療者として学んできたどんな知識よりも深く、私のこころに刻まれ、看護というものの意味を、根っこから問い直させる言葉でした。励まそうとした私が、逆に励まされ、教えようとした私が、教えられる。そんな瞬間に、現場では何度も出会ってきました。一見すると、こちらがケアを「与える側」のように見えて、実のところ、私のほうがずっと多くを受け取っていたのです。

このエッセイでは、これまでの看護のなかで出会った、忘れられない五つの言葉をお伝えします。どれも、患者さんや家族の方が、ふとこぼした、何気ない一言です。けれど、その一言が、私の看護観を、そして人としてのあり方を、静かに、けれど確実に変えていきました。お子さんのことで悩んでおられる親御さんに、現場のこんな風景もあるのだと、そっとお届けできればと思います。読み終えたとき、お子さんとの関わりの中にある、小さな言葉の大切さを、あらためて感じていただけたら幸いです。

プロローグ|ひとつの言葉が、看護観を変えることがある

看護師になりたてのころ、私は「患者さんを助ける」「良くしてあげる」という意識が、どこか強すぎたように思います。専門知識を身につけ、正しいケアを提供すれば、子どもたちは良くなっていく。そう信じて、ただ一生懸命でした。もちろん、その姿勢が間違っていたわけではありません。けれど、子どもたちと深く関わるうちに、私は次第に、「助ける側」と「助けられる側」という単純な図式では捉えきれない、もっと豊かなものが、現場には流れているのだと気づいていきました。一方通行のケアでは、子どものこころの奥には届かないのです。

子どもたちは、こちらが思っている以上に、大人をよく見ています。そして、ときに大人がはっとするような、本質を突く言葉を口にします。家族の方々もまた、わが子と向き合い続けてきた日々の中で、専門家にはない深い知恵を育んでおられます。私が「教える」立場だと思い込んでいたところで、実は私のほうが、たくさんのことを教わっていました。子どもや家族は、私にとって、ケアの対象であると同時に、人生の大切な先生でもあったのです。

これからお伝えする五つの言葉は、そんな気づきを私にくれた、大切な贈り物です。それぞれの言葉が、私の中の凝り固まった考えを、やわらかくほぐしてくれました。看護とは、技術や知識を一方的に提供することではなく、相手と共にいて、共に揺れ、共に学び合う営みなのだということを、これらの言葉が教えてくれたのです。完璧な答えを持つことよりも、相手のそばに居続けることのほうが、ずっと大切なのだと、現場が教えてくれました。

なお、ここに記す言葉やエピソードは、特定の誰かのものではなく、長年の現場で出会ってきた、たくさんの人々の姿を、プライバシーに配慮して再構成したものです。実在の特定の方の事例ではありません。けれど、そこに込められた思いと、私が受け取ったものは、すべて本物です。どうか、現場のひそやかな風景として、心を寄せて読んでいただけたらと思います。それでは、五つの言葉を、ひとつずつお伝えしていきます。

第1話|「先生、無理して笑ってますよね」

ある日のことでした。その日は、朝から立て続けに難しい場面が重なり、私自身、ひどく疲れていました。気持ちにも余裕がなく、それでも子どもたちの前では、つとめて明るく、笑顔でいなければと、自分に言い聞かせていました。看護師は、自分の感情を表に出さず、いつも穏やかで、安定していなければならない。そう固く思い込んでいたのです。揺れている自分を見せることは、プロとして失格だと感じていました。そんな張りつめた私に、ある思春期の子が、廊下ですれ違いざま、ぽつりとこう言ったのです。「先生、無理して笑ってますよね」。

その言葉に、私は一瞬、足が止まりました。完璧に隠しているつもりだった疲れと無理を、その子は、いとも簡単に見抜いていたのです。恥ずかしさと、見透かされた驚きと、そして不思議な温かさが、同時にこみ上げてきました。その子は、責めるでもなく、からかうでもなく、ただ静かに、私のことを案じているようでした。ケアをしているはずの私が、その子から気づかわれている。立場が、するりと入れ替わったような感覚でした。その瞬間の、その子のまなざしの優しさを、今でも忘れられません。

私は、観念して、正直に答えました。「うん……実はちょっと、今日は疲れてるんだ。よく気づいたね」。すると、その子は、少しほっとしたような表情を見せて、「やっぱり。先生も人間なんですね」と、ふっと笑いました。その笑顔は、入院してきてから、ほとんど見たことのない、自然で、やわらかいものでした。私が「完璧な看護師」という仮面を外したそのとき、その子もまた、自分を守るために身につけていた鎧を、ほんの少しだけ、下ろしてくれたように見えました。本音は、本音にしか開かれないのだと、強く感じた瞬間でした。

この出来事は、私の看護観を大きく変えました。それまで私は、感情を隠し、いつも完璧でいることが、プロの看護師の証だと思っていました。けれど、子どもたちが本当に求めているのは、完璧で隙のない大人ではなく、人間味のある、本音で向き合ってくれる存在なのだと気づいたのです。とりつくろった笑顔よりも、疲れていることを正直に認められる素直さのほうが、かえって子どもとの距離を縮めてくれる。これは、私にとって、大きな発見であり、ある種の解放でもありました。

思春期の子どもたちは、大人の嘘や建前に、とても敏感です。彼らは、これまでの人生で、たくさんの「大人の本音と建前」のずれに、傷つき、失望してきたのかもしれません。だからこそ、目の前の大人が本物かどうかを、鋭く見抜きます。表面的な優しさや、心のこもらない励ましは、すぐに見透かされてしまいます。逆に、不器用でも、正直に向き合おうとする大人には、時間をかけて、少しずつ心を開いてくれます。信頼とは、完璧さではなく、誠実さの上に築かれるものなのです。

それ以来、私は、自分の状態を無理に隠すことをやめました。もちろん、子どもに負担をかけるような、感情の押しつけはしません。けれど、「今日はちょっと疲れてるんだ」と素直に言える日があってもいい。完璧でない自分を、子どもたちに見せられるようになったとき、私の看護は、少しだけ自然で、温かいものに変わった気がします。肩の力が抜けたぶん、子どもたちとの関わりも、楽になりました。あの一言をくれた子に、私は今でも、深く感謝しています。

ご家庭でも、同じことが言えるのではないでしょうか。親御さんが、つらいときに無理に明るく振る舞っても、子どもはその無理を、たいてい見抜いています。それよりも、「今日はちょっと疲れちゃった」と正直に言えるほうが、子どもは安心します。完璧な親を演じるよりも、弱さも見せられる親のほうが、子どもにとっては、ずっと身近で、信頼できる存在なのです。「無理して笑う」必要は、本当はないのかもしれません。

第2話|「うちの子は、薬じゃなくて時間が必要なんです」

あるお子さんの治療方針をめぐって、ご家族と話し合っていたときのことです。なかなか症状が改善せず、医療チームとしては、より積極的な治療を検討していました。正直に言えば、焦りもあったと思います。早く良くしてあげたい、という気持ちが、どこかで先走っていたのかもしれません。そんなとき、そのお子さんのお母さんは、静かに、けれどはっきりと、こうおっしゃいました。「うちの子は、薬じゃなくて、時間が必要なんです」。

その言葉は、医療者として効率や結果を求めがちだった私に、深く突き刺さりました。私たちは、つい「早く良くしたい」「効果のある治療を」と考えてしまいます。それは善意から出るものですが、ときに、子ども自身のペースを置き去りにした、大人の都合になっていることがあります。そのお母さんは、長年わが子を見守ってきた中で、この子には今、何が必要かを、誰よりも深く理解しておられたのです。その確信に満ちた、けれど穏やかな口調に、私は背筋を正される思いがしました。

もちろん、必要な治療を否定するわけではありません。薬が大きな助けになる場面も、たくさんあります。けれど、そのお母さんが伝えたかったのは、「この子の回復には、待つという時間が、薬と同じくらい大切なのだ」ということでした。急かさず、結果を求めすぎず、ただその子が自分のペースで回復していくのを、信じて待つ。それは、医療の効率という物差しからは見えにくい、けれど確かに大切な、もう一つの治療の形でした。時間そのものが、薬になることもあるのです。

このお母さんの言葉に出会ってから、私は「待つ」ということの意味を、深く考えるようになりました。看護の現場では、つい「何かをすること」が良いケアだと思いがちです。けれど、ときには「何もせず、ただ見守り、待つこと」のほうが、その子にとって必要な場合があります。焦って手を出すことが、かえって回復を妨げてしまうこともある。待つことは、決して怠慢でも、無策でもなく、相手を信じる、能動的で、勇気のいる関わりなのだと、私は教わりました。

そして、このエピソードは、家族という存在の知恵の深さも、私に教えてくれました。医療者は、専門知識を持っています。けれど、その子の人生をまるごと、生まれたときから見てきたのは、家族です。家族には、データや診断名では測れない、その子だけの「分かり方」があります。「この子は、こういうとき、こうなる」という、長い時間をかけて積み上げた理解です。医療者と家族が、それぞれの知恵を持ち寄り、対等なパートナーとして協力すること。その大切さを、このお母さんの一言が教えてくれました。

「薬じゃなくて、時間が必要」。その言葉どおり、そのお子さんは、ゆっくりと、けれど着実に、自分のペースで回復していきました。もし私たちが、焦って大人の都合を押しつけていたら、その回復は、もっと違う、ぎこちないものになっていたかもしれません。待つ勇気を持つこと。相手のペースを尊重すること。それは、看護だけでなく、子育てにも深く通じる、普遍的な知恵なのだと思います。お子さんの成長を、焦らず、信じて待つ。その姿勢が、結局はいちばんの近道になることが、きっとあるはずです。

第3話|「言わなくていいです、ただいてください」

ある子が、深く落ち込んで、誰とも話したくない様子だった日のことです。その子の沈んだ表情を見て、私は、何か力になりたくて、励ましの言葉をかけようとしました。「大丈夫だよ」「きっと良くなるから」。頭の中で、そんな言葉を必死に探していました。沈黙が、どこか怖かったのかもしれません。何か言わなければ、と気が急いていた私に、その子は、顔を上げないまま、静かにこう言いました。「言わなくていいです。ただ、いてください」。

その言葉に、私はまた、はっとさせられました。私は、何か気の利いたことを言わなければ、何か役に立つことをしなければ、と思い込んでいました。けれど、その子が本当に求めていたのは、言葉でも、アドバイスでもなく、ただ、そばにいてくれる人の存在だったのです。沈黙を埋めようとする私の言葉は、その子にとっては、むしろ余計なもの、土足で踏み込むようなものだったのかもしれません。良かれと思った励ましが、相手を追い詰めることもあるのだと、思い知りました。

私は、探していた言葉をそっと飲み込んで、ただその子の隣に、静かに座りました。何も話さず、ただ、同じ空間で、同じ時間を過ごす。最初は、沈黙が気まずく、何か言いたくて、うずうずしました。けれど、しばらくすると、その沈黙が、不思議と穏やかなものに変わっていきました。言葉のない時間の中で、確かに何かが通い合っている。そんな感覚がありました。となりに座っているうちに、その子の、こわばっていた肩の力が、少しずつ抜けていくのが、伝わってきたのです。

この経験は、「そばにいること」そのものが、何よりのケアになるのだということを、私に教えてくれました。医療者は、つい「何かをしなければ」と思いがちです。けれど、ときには、何もせず、ただ寄り添うことが、いちばんの支えになる。言葉は、ときに人を励まし、ときに人を深く傷つけます。言葉が見つからないときは、無理に言葉を探さなくていい。ただ、そばにいればいい。その当たり前のようで、忘れがちな真実を、その子が、身をもって教えてくれました。

「ただ、いてください」という言葉には、深い信頼が込められていたのだと、今になって思います。その子は、私のことを、「そばにいてほしい相手」として、認めてくれたのです。それは、決して簡単なことではありません。誰かにそばにいてほしいと思えること自体が、その子にとっての、小さな回復の一歩だったのかもしれません。励ましの言葉よりも、ただ黙ってそばにいてくれる存在のほうが、ときにずっと心強い。それは、人と人とのつながりの、もっとも根源的な形なのだと思います。

それからの私は、子どもが言葉を求めていないときには、無理に話しかけないようになりました。沈黙を恐れず、ただそばにいる。その関わりが、どれほど子どもを支えるかを、知ったからです。ご家庭でも、お子さんが落ち込んでいるとき、無理に励まそうとせず、解決しようとせず、ただそばにいてあげること。それだけで、十分に伝わるものがあります。「何か言わなきゃ」と気負わなくて、大丈夫です。あなたがそこにいること自体が、お子さんにとって、何よりの安心になっているのですから。

第4話|「治りたくないんです」

これは、少し複雑で、長く私の心に残っている言葉です。回復に向かっていると思っていたある子が、あるとき、ふいに「治りたくないんです」と漏らしたのです。私は、戸惑いました。良くなりたくないなんて、どういうことだろう。せっかく回復してきているのに、なぜそんなことを言うのだろう。最初は、その言葉の意味が、うまく飲み込めませんでした。回復は、誰もが望むものだと、無邪気に信じていたからです。

けれど、その子の話を、急かさずにじっくり聞くうちに、その言葉の奥にある、複雑な気持ちが、少しずつ見えてきました。「治る」ということは、その子にとって、これまで自分を守ってくれていたものを手放すこと、そして再び、つらい現実の中に戻っていくことを意味していました。病気でいる間は、守られ、休むことが許されていた。けれど治ってしまったら、また一人で、あの厳しい世界に立ち向かわなければならない。その先の見えない不安が、「治りたくない」という言葉になって、こぼれ出ていたのです。

また、回復とは、これまでの「病んでいた自分」と決別することでもあります。長く症状とともに生きてきた子にとって、それは、自分の一部を失うような、寄る辺ない感覚を伴うこともあります。症状は、つらいものであると同時に、その子にとって、なじみ深い、慣れ親しんだものでもあったのです。「治る」ことへの、ためらいと恐れ。回復したいという気持ちと、このままでいたいという気持ち。その相反する二つが、その子の中で、激しく揺れ動いていました。人のこころは、そんなに単純に、一方向には進まないのだと、改めて思い知らされました。

この言葉に出会って、私は、回復を急がせることの危うさを、深く学びました。医療者は、「良くなること」を、当然のゴールとして疑いません。けれど、本人にとって、回復は、必ずしも手放しで喜べるものではないこともある。その複雑で、矛盾した気持ちを否定せず、「そうか、治りたくない、っていう気持ちもあるんだね」と、まるごと受け止めること。評価も、説得もせず、ただその揺れに寄り添うこと。それが、本当の意味で、その子に寄り添うことなのだと気づきました。

私は、その子に、回復を急かすのを、きっぱりとやめました。代わりに、「治った後の世界も、一人じゃないよ」「怖かったら、ゆっくりでいいよ」「立ち止まってもいいんだよ」と、伝え続けました。回復への不安を、その子と一緒に抱えながら、少しずつ、本当に少しずつ、前に進んでいく。その子のペースを何よりも尊重しながら、ただ見守る。やがて、その子は、誰かに強いられてではなく、自分自身のタイミングで、ふたたび回復への歩みを、自分の足で進めていきました。急かさなかったことが、結果として、その子の本当の、地に足のついた回復につながったのだと思います。

「治りたくないんです」。この言葉は、回復というものが、まっすぐで単純な、上り坂の道のりではないことを、教えてくれました。人のこころは、揺れ、ためらい、行きつ戻りつしながら、それでも少しずつ、前へ進んでいきます。その揺らぎは、後退ではなく、回復に必要な、大切なプロセスなのです。その揺らぎを、否定せず、急かさず、ただ寄り添うこと。それが、こころのケアの、もっとも繊細で、もっとも大切な姿勢なのだと、この言葉から学びました。

第5話|「先生も、わからないんですね」

最後の言葉は、ある子との、静かな対話の中で生まれました。その子が、答えのない、人生の深い問いを私に投げかけたとき、私は、知ったかぶりをすることも、安易な答えでごまかすこともできず、正直に、「ごめんね。私にも、それは分からないな」と答えました。専門家として、何か答えなければというプレッシャーを感じながらも、嘘はつけないと思ったのです。すると、その子は、少し驚いたような、けれどどこか深く安心したような表情で、「先生も、わからないんですね」と、つぶやきました。

その言葉には、責めるような響きは、まったくありませんでした。むしろ、ほっとしたような、親しみのこもった、やわらかな響きがありました。私は最初、専門家として「分からない」と認めることに、少しの後ろめたさを感じていました。看護師なら、何でも知っていて、どんな問いにも答えられるべきではないか、と。けれど、その子の安堵した表情を見て、その思い込みが、根本から間違っていたことに気づいたのです。分からないと認めることは、負けでも、失格でもなかったのです。

その子にとって、「分からない」と正直に言ってくれる大人の存在は、かえって安心できるものでした。これまで、たくさんの大人が、分かったふりをして、安易で、上から目線の答えを与えてきたのかもしれません。「こうすればいい」「こう考えればいい」「気にしすぎだ」。そんな、心に届かない答えに、その子は、ずっと違和感と孤独を抱えてきたのでしょう。だからこそ、分からないことを、分からないと認める大人に、本物の誠実さと、対等に扱われる尊さを、感じ取ってくれたのだと思います。

この経験から、私は、「分からないことを、分からないと認める勇気」の大切さを、深く学びました。専門家であっても、人のこころのすべてが分かるわけではありません。むしろ、分からないことのほうが、ずっと、ずっと多いのです。その謙虚さを失って、何でも分かったつもりになることのほうが、よほど危険です。「分からない」と認めることは、専門性の放棄ではなく、相手を一人の人間として、対等な存在として、心から尊重することなのだと気づきました。

そして、「分からない」を共有することは、相手との関係を、対等で、温かいものに変えてくれます。「教える人」と「教わる人」という上下の関係ではなく、「一緒に分からなさを抱える仲間」になる。その子と私は、答えのない問いを前に、共に立ち尽くし、共に首をかしげ、共に考えました。その時間は、どんな立派で正しい答えよりも、その子にとって、意味のあるものだったのではないかと思います。分からないことを、一緒に、分からないままでいられること。それもまた、確かな、一つのケアの形なのです。

「先生も、わからないんですね」。この言葉は、専門家としての私の、知らず知らずのうちに身についていた傲慢さを、やさしく溶かしてくれました。子どものこころに向き合うとき、大切なのは、すべてに正しい答えを出すことではありません。分からなさを共に抱え、共に揺れながら、それでも、そばにい続けること。その不器用な誠実さこそが、子どもの深い信頼を育てるのだと、この言葉が教えてくれました。親子の関わりでも、きっと同じです。分からないことは、一緒に悩めばいいのです。

5つの言葉が、私に教えてくれたこと

こうして五つの言葉を振り返ってみると、それらに共通するものがあることに気づきます。それは、どれも「ケアする側とされる側」という、固定された関係を、静かに、けれど力強く揺さぶる言葉だったということです。私が「助ける側」「教える側」だと無自覚に思い込んでいたところで、実は私のほうが、子どもたちや家族から、計り知れないほど多くのことを、教わっていたのです。

「無理して笑っている」と見抜かれ、ありのままでいることの強さを学びました。「時間が必要」と教えられ、待つことの、信じることの大切さを知りました。「ただいてください」と言われ、そばにいることそのものが持つ、静かな力を知りました。「治りたくない」という揺らぎに触れ、回復という道のりの、複雑さと奥行きを学びました。そして「先生もわからない」と言われ、分からなさを認める誠実さの尊さを知りました。どれも、教科書のどこにも載っていない、生きた、血の通った学びでした。

看護とは、一方的に何かを与えるだけの営みではありません。相手と深く関わる中で、こちら自身もまた変えられ、育てられていく、双方向の、いのちの交流です。子どもたちは、私にとって、ケアの対象であると同時に、人生のかけがえのない先生でもありました。彼らの一言一言が、私を、より良い看護師に、そして、より成熟した一人の人間へと、少しずつ育ててくれたのだと、心から思います。

そして、これは、子育てにも深く通じることかもしれません。親は、子どもを育てているようでいて、実は子どもから、毎日たくさんのことを教わっています。子どもの何気ない一言に、はっとさせられ、自分の凝り固まった価値観を、やわらかくほぐしてもらう。「育てる側」と「育てられる側」という一方通行の関係を超えて、共に揺れ、共に悩み、共に成長していく。それこそが、人と人との、本当の意味での関わりなのではないでしょうか。お子さんもまた、あなたにとっての、大切な先生なのかもしれません。

これらの言葉から学んだことは、特別な専門知識ではなく、人と人とが関わるうえでの、ごく基本的な、けれど忘れられがちな姿勢でした。相手を一人の人間として尊重すること。答えを急がず、そばにいること。自分の弱さも、分からなさも、正直に認めること。どれも、当たり前のようでいて、日々の忙しさの中で、つい見失ってしまいがちなものばかりです。子どもたちは、その大切さを、何度も、根気強く、私に思い出させてくれました。

そして、これらの学びは、看護の現場だけでなく、あらゆる人間関係に通じるものだと感じています。夫婦、親子、友人、職場の同僚。どんな関係においても、相手を尊重し、寄り添い、誠実に向き合うことの大切さは、変わりません。五つの言葉は、看護師としての私だけでなく、一人の人間としての私の生き方そのものを、より豊かで、あたたかなものに変えてくれたのです。

子どもの言葉を「受け取る」ために、大切にしていること

子どもたちが、こころの奥にある言葉を口にしてくれるのは、いつも、ふとした瞬間です。改まった面談の場ではなく、何気ない日常の、ちょっとした合間に、ぽろりとこぼれる。その一瞬の言葉を受け取れるかどうかは、こちらの構えにかかっています。ここで、子どもの大切な言葉を受け取るために、私が日ごろ心がけていることを、少しだけお伝えします。

一つは、心に余白を持っておくことです。自分が忙しさや焦りでいっぱいになっていると、子どもの小さなサインを、見落としてしまいます。意識して、少し立ち止まり、子どもに向き合うための余白を持つ。その余白があってはじめて、ふとこぼれる言葉を、こぼさずにすくいとることができます。心がいっぱいのときほど、深呼吸をして、間を取ることを大切にしています。

もう一つは、評価や判断を、いったん脇に置くことです。子どもが何かを話してくれたとき、すぐに「それは良くない」「こうすべきだ」とジャッジしてしまうと、言葉はそこで止まってしまいます。まずは、良い悪いの判断を脇に置いて、ただ、その言葉をそのまま受け取る。すると、子どもは安心して、もっと深いところにある、本当の言葉を、続けて話してくれるようになります。

そして、子どもを信じることです。この子は、自分の力で回復していける。この子には、大切なことを語る力がある。そう信じて関わることが、子どもの言葉を引き出します。信じてもらえている、という感覚が、子どもに、自分の内側を表現する勇気を与えるのです。これらの心がけは、看護の現場だけでなく、ご家庭でお子さんと向き合うときにも、きっと役立つものだと思います。

追章|病棟の片隅で、もう少しだけ集めた言葉

ここまで、私の看護観を変えた五つの言葉をお伝えしてきました。けれど、現場で出会う、こころに残る言葉は、この五つだけではありません。日々の関わりの中で、子どもたちや家族は、今もたくさんの大切な言葉を、そっと残していってくれます。ここからは、本編の五つに加えて、私の引き出しの奥に大切にしまってある、いくつかの言葉を、もう少しだけ分かち合わせてください。どれも、私が現場で受け取った、かけがえのない贈り物です。

「お母さんが寝てくれる方が、安心するんです」

ある子に、夜はよく眠れているかと尋ねたとき、その子が返してくれた言葉が、忘れられません。「自分のことより、お母さんが寝てくれる方が、安心するんです」。その子は、自分自身の不調よりも、自分のことで眠れず、疲れ果てている母親のことを、心の底から心配していたのです。その言葉を聞いたとき、私は、子どもというものが、親が思っている以上に、親のことをよく見て、深く気づかっているのだと、改めて思い知らされました。

子どもは、自分が家族の負担になっているのではないかと、敏感に感じ取っています。とくに、こころの不調を抱えている子ほど、「自分のせいで、家族に迷惑をかけている」という罪悪感を、強く抱きがちです。だからこそ、親が自分のことで疲弊している姿を見ると、自分の苦しさ以上に、それがつらくなってしまう。その子の優しさは、同時に、その子をさらに追い詰める刃にもなっていたのです。

この言葉は、私に、「親自身のケア」がいかに大切かを教えてくれました。子どもを支えるためには、まず親が、心身ともに健やかであることが欠かせません。親が倒れてしまっては、子どもはかえって安心できないのです。「あなたのために、お母さんも、ちゃんと休むね」と伝えることが、実は子どもへの、何よりのケアになることがあります。

ご家庭でも、お子さんのことで頭がいっぱいになり、ご自身を後回しにしておられる親御さんは、とても多いと思います。けれど、あなたが休むことは、わがままでも、怠けでもありません。それは、お子さんに「自分は家族の重荷ではないんだ」という安心を届ける、立派なケアなのです。どうか、ご自身をいたわる時間を、罪悪感なく持ってください。それが、巡り巡って、お子さんの安心につながります。

その子は、母親が少しずつ休めるようになり、表情に余裕が戻ってくると、自分自身の回復にも、前向きになっていきました。家族は、見えない糸でつながっています。一人が楽になれば、その安心が、ほかの家族にも、静かに伝わっていく。「お母さんが寝てくれる方が、安心する」。その言葉は、家族というもののつながりの深さを、私に教えてくれました。

「もう一回、生まれ直せた気がします」

長い入院生活を経て、退院していくある子が、最後にこう言ってくれたことがあります。「ここで過ごして、もう一回、生まれ直せた気がします」。その言葉に、私は胸が熱くなりました。入院してきたときには、生きることそのものに、すっかり疲れ果てていたその子が、回復を経て、新しく生き直す感覚を得てくれた。それは、看護師として、これ以上ない喜びでした。

「生まれ直す」という言葉に、私は、回復というものの本質を見た気がしました。こころの回復とは、ただ元の状態に戻ることではありません。つらい経験を経て、新しい自分として、もう一度、人生を始め直すこと。その子は、病棟で過ごした時間を通して、それまでとは違う、新しい自分の生き方を、見つけ始めていたのです。傷ついた経験すら、その子の新しい人生の、土台になっていました。

もちろん、その「生まれ直し」は、簡単な道のりではありませんでした。何度も立ち止まり、ためらい、後戻りしながら、その子は、少しずつ前に進んでいきました。その一歩一歩に、私たちは寄り添ってきました。だからこそ、「生まれ直せた」というその言葉は、その子自身が、長い時間をかけて、自分の力でつかみ取ったものなのだと、心から感じました。

この言葉は、希望を信じることの大切さを、私に教えてくれました。どんなに深く傷ついた子でも、適切な環境と関わりがあれば、必ず、新しく生き直す力を取り戻していく。今がどんなに暗く見えても、その先には、必ず光があります。お子さんのことで絶望を感じておられる親御さんに、現場からの確かな希望として、このことをお伝えしたいのです。

「もう一回、生まれ直せた気がします」。その子が、新しい人生へと巣立っていく後ろ姿を見送りながら、私は、この仕事の意味を、深くかみしめました。子どもの中には、私たちの想像をはるかに超える、回復の力が眠っています。その力を信じ、引き出すお手伝いをすること。それが、私たち看護師に託された、大切な役割なのだと思います。

「ナースさんも、ちゃんと帰ってね」

夜勤で忙しく働いていたある日、一人の子が、私にこう声をかけてくれました。「ナースさんも、ちゃんと帰ってね。無理しないで」。ケアをしているはずの私が、その子から、気づかわれている。その瞬間、私は、看護というものが、決して一方通行ではないのだと、改めて感じました。子どもたちは、自分が大切にされていると感じると、今度は、相手を大切にしようとする力を、自然に取り戻していくのです。

入院してきたばかりのころ、その子は、自分のことで精いっぱいで、他人を気づかう余裕など、まったくありませんでした。それが当然です。自分が苦しいときに、他人を思いやることなど、できなくて当たり前なのです。けれど、回復が進み、こころに余裕が生まれてくると、その子は、周りの人にも目を向けられるようになっていきました。誰かを気づかえるようになることは、回復の、確かなしるしの一つなのです。

「ナースさんも、ちゃんと帰ってね」という言葉には、その子の、やさしさが、まっすぐに表れていました。そして、そのやさしさは、これまでその子が、誰かから大切にされてきた経験の、積み重ねから生まれたものでもあります。大切にされた子は、人を大切にできるようになる。ケアは、めぐっていくのです。その循環の中に立ち会えることは、看護師にとって、深い喜びです。

この言葉は、私に、ケアの相互性という、大切なことを教えてくれました。私たちは、子どもをケアしているつもりで、実は、子どもからもケアされている。お互いに支え合い、気づかい合う。その関係の中でこそ、本当の回復が育まれていくのです。一方的に「してあげる」関係ではなく、共に支え合う関係。それが、理想の看護の姿なのかもしれません。

ご家庭でも、お子さんがふと、親を気づかう言葉をかけてくれることがあるでしょう。「お母さん、大丈夫?」「お父さん、疲れてない?」。そんなとき、それは、お子さんが、あなたから十分に大切にされてきた証です。そして、そのやさしさを、どうか、素直に受け取ってあげてください。「ありがとう、うれしいな」と。気づかいを受け取ってもらえることも、お子さんにとっては、大きな喜びなのですから。

「もう、自分を許してもいいですか」

最後にご紹介するのは、長く自分を責め続けてきた、ある子の言葉です。回復の終盤、その子は、ためらいがちに、私にこう尋ねました。「もう、自分を許してもいいですか」。その問いに、私は、思わず胸が詰まりました。その子は、ずっと、自分のことを責め続けてきたのです。「自分が悪い」「自分なんて価値がない」と。その重い荷物を、ようやく、下ろしてもいいのだろうかと、おそるおそる尋ねてくれたのです。

私は、はっきりと答えました。「もちろんです。あなたは、十分すぎるほど、頑張ってきました。もう、自分を許してあげてください」。その言葉を聞いて、その子の目から、静かに涙がこぼれました。それは、長い間こころを縛ってきた鎖が、ほどけていく涙のように見えました。自分を許すこと。それは、こころの回復における、もっとも深く、もっとも大切な一歩です。

こころの不調を抱える子どもたちの多くは、深い自己否定を抱えています。「自分が悪い」「自分はダメだ」という思いが、こころの奥に、固く根を張っています。その自己否定こそが、回復を妨げる、大きな壁になっていることが、とても多いのです。だからこそ、「自分を許してもいい」と思えるようになることは、回復の核心とも言える、大きな転換点なのです。

その子が、自分を許せるようになるまでには、長い時間がかかりました。私たちは、ただ繰り返し、「あなたは悪くない」「あなたには価値がある」と伝え続けました。すぐには信じてもらえません。けれど、何度も、何度も伝え続けるうちに、その言葉は、少しずつ、その子のこころに染み込んでいきました。そして、ついに、その子は、自分で自分を許す、その日を迎えられたのです。

この言葉は、自己肯定感を取り戻すことの大切さを、私に教えてくれました。そして、それを支えるのは、周りの大人が、根気強く、「あなたは大切な存在だ」と伝え続けることなのだと。お子さんが自分を責めているとき、どうか、繰り返し伝えてあげてください。「あなたは悪くない」「あなたがいてくれて、うれしい」と。その言葉は、すぐには届かなくても、必ず、お子さんのこころの奥に、静かに積もっていきます。そしていつか、お子さんが、自分自身を許せる日が、きっと訪れます。

「先生たちがいてくれて、よかった」

退院の日、あるお子さんのご家族が、私たちにかけてくださった言葉も、深く心に残っています。「先生たちがいてくれて、本当によかった」。入院を決めるまで、ご家族は、長い間、たった一人で、わが子の苦しみを抱え込んでこられました。その重い荷物を、ようやく専門職と分け合えたことが、どれほどの支えになったか。その言葉の、しみじみとした響きから、痛いほど伝わってきました。

お子さんのこころの不調と向き合う日々は、ご家族にとって、孤独で、出口の見えない、過酷なものです。周囲には理解されず、相談できる相手もなく、ただ一人、不安と自責の念を抱えて、夜を過ごす。そんなご家族が、本当にたくさんおられます。だからこそ、「一人で抱えなくていい」「一緒に考える仲間がいる」と感じてもらえたとき、ご家族の表情が、ふっとゆるむ瞬間があります。その瞬間に立ち会えることも、私たちの仕事の、大切な一部です。

この言葉は、私に、医療者の存在意義を、改めて教えてくれました。私たちは、病気を治すだけが仕事ではありません。苦しんでいる子どもと家族の、孤独な道のりに、共に歩む伴走者となること。「一人ではない」と感じてもらうこと。それもまた、医療の、とても大切な役割なのだと、この言葉が教えてくれました。専門的な治療と同じくらい、寄り添う存在であることに、意味があるのです。

そして、この言葉は、私自身への、何よりのねぎらいでもありました。うまくいかないことも多く、自分の無力さに落ち込む日々の中で、「いてくれてよかった」という言葉は、この仕事を続ける力を、与えてくれます。私たちは、子どもと家族を支えているつもりで、その感謝の言葉によって、私たち自身もまた、支えられているのです。

もし今、お子さんのことで、孤独な戦いを続けておられる親御さんがいたら、どうかお伝えしたいのです。あなたは、一人で抱え込まなくていいのです。医療機関、相談窓口、支援機関。あなたとお子さんを支える存在は、必ずあります。「先生たちがいてくれてよかった」と、いつか思える日が来るように。どうか、ためらわず、その手を、専門職に向かって伸ばしてください。

「またここに来てもいいですか」

退院していくある子が、不安そうに、こう尋ねたことがあります。「また、ここに来てもいいですか」。退院は、うれしいことであると同時に、安全な場所を離れる、心細さも伴います。その子にとって、病棟は、安心して自分でいられる、大切な居場所になっていたのです。だからこそ、「またここに戻ってこられる」という安心が、外の世界へ踏み出す、勇気の支えになっていました。

私は、はっきりと答えました。「もちろんです。いつでも、来ていいですよ」。退院は、つながりの終わりではありません。困ったとき、つらくなったとき、いつでも戻ってこられる場所がある。その安心感が、子どもが安心して、外の世界で頑張るための、心の拠りどころになります。「いつでも戻れる」と思えるからこそ、人は、前に進めるのです。

実際、回復の道のりは、まっすぐではありません。退院後に、また調子を崩してしまうこともあります。そんなとき、「もう一度頼っていい場所がある」と知っていることは、何よりの支えになります。再び助けを求めることは、決して後退でも、失敗でもありません。むしろ、自分の限界を知り、適切に助けを求められることは、大きな力なのです。

この言葉は、「安心できる居場所」が、人にとってどれほど大切かを、私に教えてくれました。いつでも戻れる場所、ありのままの自分を受け入れてもらえる場所。そうした居場所があることが、人が前を向いて生きていくための、土台になります。それは、病棟に限った話ではありません。家庭もまた、子どもにとって、そうした居場所であってほしいと、心から願っています。

ご家庭が、お子さんにとって「いつでも戻れる、安心できる居場所」であること。それは、何より大きな支えになります。たとえ外でつまずいても、家に帰れば、ありのままの自分を受け入れてもらえる。その安心感が、お子さんが外の世界で頑張る力を、支えます。「またここに来てもいいですか」と、お子さんが安心して甘えられる場所であり続けること。それが、家庭にできる、大切な役割なのだと思います。

看護師として歩いてきた道

これらの言葉に出会いながら、私は、児童思春期精神科の看護師として、長い道のりを歩いてきました。最初は、知識も経験も乏しく、ただ気持ちばかりが先走る新人でした。子どもたちのこころが分からず、良かれと思った関わりが空回りし、自分の無力さに、夜、一人で落ち込むことも、数えきれないほどありました。何が正解なのか分からず、手探りで進むしかない日々でした。

けれど、たくさんの子どもたちや家族と出会い、その言葉にていねいに耳を傾け、共に時間を過ごす中で、私は少しずつ、看護師として、そして人として、成長させてもらいました。うまくいかなかった日も、後悔の残る関わりも、誰かを傷つけてしまったかもしれない場面も、そのすべてが、今の私を形づくっています。むしろ、失敗から学んだことのほうが、うまくいったことから学んだことよりも、ずっと多かったように思います。

この仕事は、決して楽なものではありません。子どもたちの抱える痛みは深く、ときに、自分の力ではどうにもならない現実を前に、打ちのめされることもあります。それでも、私がこの仕事を続けてこられたのは、子どもたちが見せてくれる、しなやかな回復の力と、ふとした瞬間にこぼれる、あの自然な笑顔があったからです。一人の子が、時間をかけて、少しずつ元気を取り戻していく。その過程に、いちばん近くで立ち会えることは、何ものにも代えがたい、深い喜びです。

そして、子どもたちや家族からもらった、たくさんの言葉が、これまで私を支えてきてくれました。つらいとき、迷ったとき、自分を見失いそうなとき、あの言葉たちを思い出すと、看護の原点に、すっと立ち返ることができます。私は、これからも、子どもたちから教わりながら、この道を歩いていくのだと思います。教える側であると同時に、いつまでも、謙虚に学ぶ側でありたい。それが、一人の看護師としての、私の変わらない願いです。

振り返れば、この道のりは、決して平坦ではありませんでした。子どもの回復が思うように進まず、自分の関わりが正しかったのか、何度も自問した夜があります。ときには、子どもや家族の苦しみの深さに、自分の無力さを思い知らされ、こころが折れそうになることもありました。それでも、また翌日、病棟へ向かえたのは、この仕事に、確かな意味を感じていたからです。

そして、同僚や先輩、多くの専門職の仲間に支えられてきたことも、忘れてはなりません。一人では抱えきれないことも、チームでなら、支え合える。悩みを分かち合い、知恵を出し合い、共に子どもたちの回復を願う仲間がいたからこそ、私は、この道を歩き続けることができました。支え合うことの大切さは、子どもたちにだけでなく、私たち医療者自身にも、当てはまることなのだと、日々感じています。

親御さんに、そっとお伝えしたいこと

このエッセイを読んでくださっている親御さんの中には、お子さんのことで、深く、長く悩んでおられる方も多いと思います。最後に、現場で働く一人の看護師として、親御さんに、そっとお伝えしたいことが、いくつかあります。どうか、肩の力を抜いて、聞いてください。

まず、お子さんの何気ない一言に、どうか耳を傾けてあげてください。子どもたちは、ときに、大人がはっとするような、本質を突く言葉を、ふいに口にします。それは、その子の心の奥からの、大切なメッセージであり、SOSであることもあります。すぐに答えを返そうとせず、評価もせず、まずは、その言葉をそのまま、まるごと受け止める。「そう感じているんだね」と。それだけで、子どもは「分かってもらえた」と感じ、少し安心できるものです。

そして、完璧な親であろうと、頑張りすぎなくて、大丈夫です。子どもたちが本当に求めているのは、何でも知っていて、どんな問題もたちどころに解決してくれる、完璧な親ではありません。ときに弱さを見せ、分からないことは分からないと正直に認め、それでも変わらずそばにい続けてくれる、人間味のある親です。「無理して笑っている」あなたよりも、「今日はちょっと疲れた」と正直に言えるあなたのほうが、子どもの心には、ずっと深く届きます。

最後に、お子さんの回復や成長を、どうか急かさないでください。子どものこころは、揺れ、ためらい、ときに後戻りしながら、その子だけのペースで、少しずつ前に進んでいきます。「治りたくない」というような、複雑で矛盾した気持ちも、その子の大切な一部です。焦らず、信じて、待つこと。その温かい見守りこそが、お子さんの本当の力を、内側から引き出します。そして、つらくてたまらないときには、どうか一人で、家庭だけで抱え込まず、専門家を頼ってください。あなたとお子さんを支える場所は、必ずあります。あなたは、決して、一人ではありません。

それから、ご自身を責めないでほしい、ということも、強くお伝えしたいのです。お子さんがこころの不調を抱えると、多くの親御さんが、「自分の育て方が悪かったのではないか」と、自分を責めてしまいます。けれど、こころの不調は、誰か一人のせいで起こるものではありません。さまざまな要因が複雑に絡み合って生じるものです。どうか、ご自身を責める前に、ここまでお子さんを支えてこられたご自身を、まず、ねぎらってあげてください。

そして、お子さんと向き合う中で、あなた自身もまた、悩み、揺れながら、成長しておられるのだと思います。完璧でなくて、いいのです。迷いながら、ときに間違えながら、それでもお子さんと向き合い続けるその姿は、それ自体が、お子さんにとって、何よりのお手本になっています。あなたの愛情は、たとえ形は不器用でも、必ずお子さんに伝わっています。その歩みを、現場の一看護師として、心から応援しています。

エピローグ|言葉を抱えて、今日も病棟へ

五つの言葉を胸に抱えて、私は今日も、病棟へと向かいます。これらの言葉は、私の看護の、そして人としてのあり方の、大切な道しるべです。迷ったとき、立ち止まったとき、自分のしていることに自信が持てなくなったとき、私はいつも、あの子たちの、あの家族の言葉を思い出します。すると、自分が本当に大切にすべきものが、また見えてくるのです。

看護師という仕事は、知識や技術だけでは、決して務まりません。一人の人間として、相手と正面から向き合い、共に揺れ、共に悩み、共に学び合う。その地道な積み重ねの中で、私自身も、少しずつ、けれど確かに、変わってきました。子どもたちは、私にとって、ケアの対象であると同時に、人生のかけがえのない先生です。これからも、彼らから教わり続けながら、この道を、一歩ずつ歩いていきたいと思います。

そして、これからもきっと、私は新しい言葉に出会っていくのでしょう。子どもたちや家族が、ふとこぼす何気ない一言の中に、はっとさせられる真実や、深い知恵が隠れている。その言葉を、見落とさずに、大切に受け取り、自分の中で育てていく。それが、看護師としての、私のささやかな、けれど何より大切な喜びであり、これからも続けていきたい、私の使命でもあります。

今、お子さんのことで悩んでおられる親御さんへ。あなたのお子さんもきっと、あなたにしか届けられない、大切な言葉を、心の中に持っています。その言葉に、どうか、耳を傾けてあげてください。そして、あなた自身も、決して一人で抱え込まず、周りの力を借りながら、お子さんと共に、ゆっくりと歩んでいってください。あなたが今、お子さんを思い、悩んでいるその気持ちそのものが、すでに、お子さんを確かに支えています。現場の一看護師として、あなたとお子さんの歩みを、心から応援しています。そして、いつの日か、あなたのお子さんがふと口にする何気ない一言が、あなたにとって忘れられない、大切な贈り物になる日が、きっと訪れます。その日まで、どうか、あなたもご自身を大切にしながら、お子さんと共に、一歩ずつ歩んでいってください。

緊急のときの相談先

お子さんが「死にたい」と口にする、自分を傷つけている、強い不安で動けないなど、緊急性を感じる状況のときは、ためらわずに専門の窓口に相談してください。一人で、あるいは家庭だけで抱え込まないことが、何よりも大切です。

子ども本人が相談できる窓口として、「チャイルドライン」(18歳までの子どものための電話・チャット相談)や、文部科学省の「24時間子供SOSダイヤル」があります。気持ちがつらく追い詰められているときには、「よりそいホットライン」などの相談窓口も利用できます。電話番号や受付時間は変更されることがあるため、各窓口の公式サイトで最新の情報をご確認ください。

身体の安全が脅かされているような切迫した状況では、迷わず地域の医療機関の救急や、必要に応じて119番に連絡してください。お子さんの心の状態について相談したいときは、かかりつけの医療機関や、お住まいの自治体の精神保健福祉センター、児童相談所にも問い合わせることができます。専門家は、そうした相談を受け止めるためにいます。日ごろから、相談先をいくつか調べて控えておくと、いざというときに安心です。

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免責事項

本記事は、児童思春期精神科での看護経験をもとにしたエッセイであり、特定の個人の事例を描いたものではありません。登場する子どもや家族の言葉・描写は、プライバシーに配慮し、複数の経験をもとに再構成した架空のものです。また、本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、特定の診断や治療を示すものではありません。お子さんの状態について気になることがある場合は、自己判断せず、医療機関やお住まいの自治体の相談窓口など、専門家にご相談ください。記事内で紹介した相談窓口の情報は変更される場合がありますので、利用の際は各窓口の公式情報をご確認ください。

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